ベトナムの暮らし

ベトナムの歴史Point1

フランスの植民地支配【1858年~1945年】

インドシナ戦争【1945年~1954年】

【南へ向かった艦隊】

1858年、フランス艦隊13隻とスペインの軍船1隻がダナン沖に現れた。艦隊の装備は近代化されており、約三千名の兵を乗せていた。 艦隊の当初の目的は、ダナンおよび首都フエを攻略して阮(グエン)朝を屈服させることにあったが、この目的は果たせず、翌1859年に南部へ向かって、サイゴン(現ホーチミン)を占領した。
その後、南部におけるフランスの領土拡張は続き、1862年にフランスと阮朝のあいだでサイゴン条約が成立して、ベトナム南部の東半分(メコンデルタの東部からサイゴンの東まで)がフランスに割譲された。
さらに1867年、フランスはわずか二千名たらずの兵力で威嚇することによって、南部の残りの西半分を奪い、これによってベトナム南部はすべてフランスの支配下に入った。

【東洋のフランス大拠点】

南部を手に入れたフランスは、1873年から1882年にかけて、ベトナム北部にも兵を送り、これを占領した。 この結果、1883年にフエ条約が結ばれ、北部・中部を含めてベトナム全土がフランスの保護下に入った。阮朝は外交権も失って、フランスによるベトナムの植民地化は完成した。
また、1884~85年の清仏戦争では、フランスに敗れた清はベトナムにたいする宗主権を放棄した。これによって、ベトナムにたいするフランスの支配は国際的にも確立した。
これらと並行して、フランスはラオスとカンボジアの植民地化も進め、1893年までにはベトナム・ラオス・カンボジアをまとめて1つの単位とした。 ここに、アジアにおけるフランス最大の植民地「仏領インドシナ」が成立した。かつて日本では仏領インドシナを略して仏印(ふついん)とよんだ。

【フエの傀儡王朝】

仏領インドシナの枠内では、ベトナムはひとつの国としてのまとまりを失って3分され、北部は「トンキン」、中部は「アンナン」、南部は「コーチシナ」と称された。 阮朝はフエに温存され、フランスの傀儡王朝として1945年まで存続した。仏領インドシナの頂点にはフランス人の総督が立った。
ベトナムの植民地化にあたっては、フランスは常にわずか数千名の兵力を用いることで、ベトナム全土の植民地化に成功した。 その兵力詳細は、1858年のダナン攻略は3000名、1861年のサイゴン攻略は3500名、1867年のメコンデルタ攻略は2000名、1882年の北部攻略は約1000名余りと、小さな兵力であった。 フランス軍が近代化されていたとはいえ、その侵入にたいするベトナムの抵抗力は驚くほど弱かった。

【日露戦争の衝撃】

仏領インドシナの枠内では、ベトナムはひとつの国としてのまとまりを失って3分され、北部は「トンキン」、中部は「アンナン」、南部は「コーチシナ」と称された。 阮朝はフエに温存され、フランスの傀儡王朝として1945年まで存続した。仏領インドシナの頂点にはフランス人の総督が立った。
ベトナムの植民地化にあたっては、フランスは常にわずか数千名の兵力を用いることで、ベトナム全土の植民地化に成功した。 その兵力詳細は、1858年のダナン攻略は3000名、1861年のサイゴン攻略は3500名、1867年のメコンデルタ攻略は2000名、1882年の北部攻略は約1000名余りと、小さな兵力であった。 フランス軍が近代化されていたとはいえ、その侵入にたいするベトナムの抵抗力は驚くほど弱かった。

【ベトナム語のローマ字化】

フランスはベトナム南部では商品作物のプランテーション経営を進め、北部では鉱産資源の開発を進めた。 その中でも、南部のコメとゴム(現在のミシュランタイヤの基礎となっている)、北部の石炭は、植民地ベトナムの最も重要な産品であった。
フランスは南北を縦断する鉄道を建設したほか、メコンデルタに網の目のような運河を掘りめぐらした。 従来、低湿地のメコンデルタは利用困難な空間であったが、運河によって適度な排水がおこなわれて農耕と居住に適した場所にかわり、世界的に重要なコメの産地として発展をはじめた。
フランスによって西洋式の教育がもちこまれたことや、封建支配層が政治力を失ったことによって、儒教にもとづく従来の教育は廃れ、20世紀初めには科挙も廃止された。
また、行政文書上のベトナム語はローマ字で記すことが定められた。 この表記法はクォックグー(国語)とよばれ、17世紀にフランス人宣教師アレクサンドル・ド・ロードによって考案されたものである。 クォックグーは20世紀前半に、それまでの漢字やチュノムにとってかわり、現在ベトナム語の正書法となっている。

【共産主義とホー・チ・ミン】

のちにベトナム共産党の創立者となるホー・チ・ミン(1890~1969年)がサイゴンから出国したのは1911年であった。 彼は下層労働者として欧米各地を渡ったのち、植民地本国のフランスにおいて、グエン・アイ・コックの名で植民地支配を糾弾する活動をはじめた。
1917年のロシア革命後、ホー・チ・ミンはレーニン主義に出会い、植民地の独立を実現するカギは共産主義にあると考えるようになる。 彼はソ連に入ったのち、まもなく共産主義の活動家として中国南部の広東に姿を現した。 ベトナムに近い広東には、独立運動をこころざすベトナム人が集まっており、ホー・チ・ミンはこれらを組織して、1930年に香港でベトナム共産党を創立する。

【くりかえす党名変更】

その後ベトナム共産党は党名変更をくりかえしており、跡づけはやや複雑である。創立と同じ1930年、ベトナム共産党は早くもインドシナ共産党と改称する。 インドシナ共産党は1945年にベトナム民主共和国の独立を指導するが、インドシナ戦争中の1951年にはベトナム労働党と改称した。
1954~75年の南北分断・ベトナム戦争の時代、ベトナム労働党は北ベトナムの政権党であった。 ベトナム戦争終結後の1976年、労働党は当初のベトナム共産党の名前に戻り、ベトナム社会主義共和国の政権党として現在にいたっている。
なお、植民地時代のベトナムでは、1927年に民権的な民族政党として創立されたベトナム国民党や、 1923年にベトナム人有産階級を基盤として創立された立憲党がなどあったが、1945年以降さまざまな理由で姿を消した。

【日本軍の仏印進駐】

1939年にヨーロッパで第二次大戦がはじまり、1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、日本はフランスと協定を結んで9月に仏領インドシナの北部に進駐し、つづいて1941年7月には南部にも進駐した。
仏印進駐によって、ベトナム全土は1941年7月から1945年3月までの期間、フランスと日本の二重支配下に置かれた。 この期間、フランスは従来どおりベトナムの行政をとりおこない、日本軍はベトナムに駐留して東南アジアで軍事行動を展開した。
1941年、中国国境に近いベトナム北部の山地で、ホー・チ・ミンらの指導により、インドシナ共産党の下にベトナム独立同盟が結成され、日仏共同支配からの独立運動をはじめた。 ベトナム独立同盟はベトミン(越盟)と略称され、共産主義者以外も含む幅広い民族組織となることをめざしていた。

【翌朝きえていたフランス】

大戦末期の1945年3月、在ベトナムのフランス軍がやがて連合国側に寝返ることを予見した日本軍は、インドシナ全土でフランスの支配機構の打倒を決行した。
日本軍の行動によって、85年のあいだ続いたフランスのベトナム支配は、ほぼ一夜にして消滅した。この日本軍の行動は「仏印処理」または「明号作戦」とよばれている。
単独支配を確立した日本は、阮朝最後の王バオダイをたてて形式的にベトナムを独立させ、連合国の侵攻にそなえた。 しかし結局、連合国がインドシナに侵攻することなく、1945年8月、日本は降伏した。